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前記事の歌わかりました「この日のために」

久しぶりの連日投稿です。
今日は少し時間があり、再検索をしたところ
ようやく出てきました。
「この日のために」という歌で、公募作品だそうです。
お聞きください。



でも私が幼稚園で聞いたのはもっと泥臭い歌唱だった。
いろいろ調べると競作だったらしく、この動画サイト
とは違う版かもしれません。

幼児ゆえ歌詞も間違えて覚えていました。
それから、敗戦後20年も経ていないので、
何やら軍歌調なのも今となっては気になります。
札幌オリンピックの「虹と雪のバラード」とは
趣きが違う。

オリンピック熱は翌年も続いていたようで
幼稚園の運動会では、父兄が昼から
オリンピック音頭を踊っていました。
でもこのときは「40年不況」で大変だったはずだが。
2013101310500000.jpg

いわし雲いずこに消えたか晴れ続く

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昭和 父 デトロイト デトロイト破壊の追記画像あり

デービッド・コール氏が米デトロイトの高校を卒業し、自動車工学を学ぶため大学に進んだ1955年、同市は「自動車の都」と呼ばれていた。それから約60年が経った今、「都」から「自動車」はほぼ消えてしまったと同氏は語る。

自動車業界がグローバル化し、「より速く、より安く」が製造面で重視されるようになり、かつてはデトロイト市内に点在し何千人もの従業員を抱えていた自動車工場の多くは郊外や他の州、もしくは中国やブラジルに移転したとコール氏は述べた。コール氏は米自動車研究センター(CAR、ミシガン州アナーバー)の名誉会長で、ゼネラル・モーターズ(GM )元社長の息子。

コール氏は「自動車業界はプレッシャーを受けて変わらざるを得なかった。そして進化した」とした上で、「だがデトロイトは変わらなかった。悲しいことだ。全てを当たり前のように享受できると思い込んでいた」と述べた。

デトロイト市は18日、連邦破産法9条の適用を申請した。米自治体の破綻としては過去最大。負債は180億ドル(約1兆8000億円)に膨らんでいた。デトロイトを本拠地と呼ぶGMやフォード ・モーター、クライスラー・グループは利益を上げ、成長を続けている。

カリフォルニア大学バークレー校で労働問題を専門とするハーレー・シェイケン教授は「20世紀の大半において、自動車産業とデトロイトは同義語だった」とし、「デトロイト市内を運転すれば、いや応なし自動車メーカーの存在に気付かされる」と語る。

別々の運命

その上で、「自動車産業はグローバル化し、米国内でも分散が進んだ」と指摘。「ミシガン州ではなお極めて大きな存在感があり、デトロイト市内でもその存在は重要だ。だが運命は別々の方向へと変わってしまった」と述べた。

米政府の自動車産業作業部会で首席顧問を務めたスティーブン・ラトナー氏は、デトロイト市の再建は米自動車メーカーほど迅速にも容易にも進まない可能性が高いとの見方を示した。

GMとクライスラーは公的資金の注入を受け、破綻申請から約6週間で再出発した。公的資金による救済を辞退したフォードは、債務や労働コストの削減などを通じ自力で再建を果たした。

ラトナー氏は取材で、「デトロイト市の再建は自動車メーカーよりずっと厳しいものになる」と指摘。「長い時間かかることになるだろう」と予想した。

デトロイト市と自動車産業の繁栄との結びつきは、ここ60年の間に薄れてきた。市内の製造業の職は1950年におよそ29万6000あったが、2011年には2万7000未満に減少。米自動車メーカーは新たな工場を国内の別の地域や国外に建設し、生産移転を進めた。そうした移転がデトロイトの衰退を加速させた。


http://www.bloomberg.co.jp/news/123-MQ71QI6JIJVK01.html

本日は「父親自慢」というイヤミな記事です。

父は1950年代の後半、この街に二年間留学をしていました。
まだ一般人の海外旅行が許される前の官費留学です。
当時アメリカにいた日本人は僅かな駐在員と留学生、
それに戦争花嫁だけだったそうです。
アメリカの豊かさと敢闘精神を感じた反面、
公民権運動が本格化する前ゆえ、
人種差別に憤りまた自らも悩まされた二年間だったようです。

破綻のニュースが飛び交った週末。
たまたまマスターは仙台に帰省していました。
早速、書庫へ向かいました。
写真撮影が好きな父が残した「黄金時代のデトロイト」の
カラー写真があったはずです。

確かにそれはありました。
写真がデジタル化される直前まで、プロはもちろんアマチュア愛好家も
高いフィルム現像代を避けるために、カラー撮影を中心に
リバーサルフィルムを使用していました。要するに「スライド」です。
そこに写っているカラーのデトロイト市街、ハイキングやボート遊びに
興じる市民たち、大きな車と家、中心部のビル群は
敗戦国の貧乏学者だった父を驚かせるに十分だったでしょう。

73年秋、オイルショックの直前、父はデトロイトを再訪します。
「15年たったが何も変わらぬ街である。」と当時家族に宛てた
絵葉書に書き残しています。

実際は60年代の暴動のあと、白人たちの脱出が始まっていた時期ですが
一介の旅行者にはそこまで見ることはできなかったでしょう。
逆に「何も変わらぬ」とはデトロイトの停滞の予兆だったかもしれません。
父も驚いていたように日本車が米本土を当たり前に走っていた時代になっていました。

70年代の末からデトロイトの凋落ぶりが日本でも伝えられるようになりました。
ある日新聞で「フォードが付属病院売却」という記事をマスターが見つけ
父に見せると「あの巨大で最新鋭設備の病院が・・・。」と絶句しました。

スライドを死蔵するのももったいないと思い、
今回そのスライドを持ち帰り、皆様に少しずつ公開しようとしましたが
仙台宅に忘れてしまいました、来月に予定している次回帰省後から公開します。

長らく仙台宅の玄関には、デトロイト・タイガーズのマスコットのトラが
ガッツポーズを決めている陶製の飾り物がありました。

しかし、父の死後一週間後に起きた東日本大震災で
その飾り物は床に落ち壊れてしまいました。

追記
その時の写真が見つかりました。
将棋の駒の置物の下敷きになっています
胸の「Detroit」の文字がはっきりと見えます。
IMGP0077-1.jpg


熱き夜破産の街の昔見ゆ




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「栄光の5000キロ」の思い出

過去記事の「栄光の5000キロ」には思い出がある。
まだ母が元気だった頃だ、母とテレビを見ていた。何かの用事で帰省していたのだろう。
番組はおそらくテレビのミニシリーズ「弟」の宣伝番組だったはずだ。
もし違っていたらご容赦願います。

石原まき子氏が登場して、裕次郎は自宅の映写室でよく「栄光の5000キロ」を見ていたこと。
出演作では一番気に入っていたのではという逸話を披露した。
その話のバックで本作の一部が放送された。

たぶんアフリカのラリー中にクルマの修理をしている場面だ。
それを見ていた母が「あら、この映画私見たわ。」というのである。

聞けば、父が職場の帰りに鑑賞。
(たぶん日活映画館なので帰宅ルートにあたる。)
それで母に「面白いからお前も見なさい。」と言われたので観たそうだ。

公開時はマスターは小学校低学年。
一人で留守番は難しいだろうから、平日午後ならば連れてもらえたはずだが
マスターにはもちろん記憶がない。

「あら、じゃ私だけ買いものがてら一人で観たのね。」と母は笑っていた。
その時父は出かけていたかすでに寝ていたので確認はできなかった。

その後二人とも相次いで世を去り、確認は不可能となった。

故郷の七夕想いし空に星


otouto.jpg

画像はドラマ「弟」のDVDセットです。
たいして期待しないで観ましたが、意外とよい作品でした。
もし未見ならば是非ご覧ください。

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中学校のアンケートその1

大津市の「いじめ自殺事件」で思い出したことがある。
大津市の中学校でもアンケートを行ったそうだが、マスターの在学していた
中学校でもそれなりの規模・少なくとも2回行われている。

一回はこういうことだった。
理科の時間である。
「ほかの理科の先生に頼まれた。」といわれて担任の先生(理科担当)が
一枚のプリントをクラス全員に渡した。

アンケートの内容は生徒たちの性意識の調査であった。
設問は「現時点(そのときは中学1年)でどこまで男女交際が許されるか」
というのを覚えている。
選択肢は「手を握る」「キスする」「プラトニックラブ」「泊りがけの旅行」
など数項目に及んでいた。

こっちは田舎の小都会の中1生である。
「プラトニックラブ」なんて言葉は初めてしったので、回答に戸惑った。
ほかの質問も同様なものだったはずだ。
記名式だあったかどうかは覚えていない。


翌春の人事異動で、その教師はマスターの通う中心部の中学校から
郊外の小学校に異動となった。昇格はしていない。つまり左遷?

今にして思うとあの「アンケート」が問題になったのかも知れない?
マスターはアンケートの件は親に話さなかったが、
ほかのクラスでも行っていた(学年全クラスではない)ようなので
アンケート内容を親に話した生徒もいるだろう。
マスターが親だったら、学校側に「すこし行き過ぎでは」と話しただろう。
まあ、単に思い過ごしかもしれないが。
当時マスコミで「性の解放」が話題となっており、
学校での性教育の立ち遅れが話題となっていた。

そういう事情から「意識ある」教師がアンケートを実施したのかもしれない。
でも、「いきなり」はまずい。もう少し下準備は必要だったろう。

もうひとつのアンケートは別の機会に

フロントの絨毯滲みけり夕の雨

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久しぶりの八千代台駅西口

とある晴れた日、所用で京成電鉄八千代台方面へ出掛けた。
実はマスター、かってこの街の住民で拙ブログでも取り上げていた。
(もっとも当時は地名を伏せていた。ブログを10年近く続けると
個人情報を自分からドンドンばらしてしまいます。長く続ける予定の人は
Facebook式にはじめからオープンにしたほうがよいかも。)

駅と直結したビルの本屋は以前とおり盛業中。
もっとも写真はアップしなかったが、かってお世話になった
独立系レンタルビデオ店はマスター在住の末期に閉店、
今はシャッターが閉まったままなのはさびしい。
2012040714370001.jpg


といあえず駅の西口へ、小さなバス停とロータリーがあります。
駅開業は1956年と比較的遅い。もともと台地と演習地しかなかった
所に団地を作るための開業だったそうです。
駅前に「住宅団地発祥の碑」があります。何でも歴史になります。
2012040714270000.jpg
しばらく歩くと、駅開業から間もなくのころから開いている古本屋。
全共闘世代のオジサンが現店主。
今時誰が買うのか「レーニン全集」などの類がうずたかく積まれています。
ここで文庫版の「空海の風景」を買おうとしたら
「アンタ。表の200円均一のカゴに入っているハードカバーの方が安いよ。」
と言われて、無理やりハード版を買わされました。
定休日ではなさそうだが、今日は休みのようです。
店主はこの界隈の読書好きや古本業界では有名人だそうです。
店主は帳場で常連さんと本の話をしている、そんな店です。
うっかり常連になると仕事に差しさわりがでそうなので、
適当に出入りしていました。

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休日の午後に良く出掛けた蕎麦屋さん。
ここに置いていたスポーツ新聞で岡本喜八の訃報記事を読みました。
ここも事実上閉店しているようです。
高度経済成長と共に生まれ、少子高齢化とともに勢いを失っている街です。

2012040714230000.jpg
同様によく出掛けた中華料理屋さん。こちらは盛業中のようです。
こういう店で、店においてある古新聞・古雑誌を読みながら
一杯飲むのがマスターの趣味のひとつです。
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散る桜花それぞれ想いを乗せながら

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柚子湯

毎年柚子湯の日になると思い出すことがある。
1979年12月。マスターが宮城県出身者のための
学生寮(五城寮)(品川・東大井)にいたときである。
丁度冬至の日に、在寮の同期数名が連れだって風呂屋に出かけることにした。
何でも風呂屋では「柚子湯」をサービスしてくれるそうである。

寮の近くには二軒風呂屋があった。
ひとつは寮から近いがやや設備が古かった。
もう一つは離れているが小奇麗であった。

近い方の風呂屋に出かけようとしたら、
その数名の内の年長者が「あそこは古くていやだ。
キレイな方に行こう。」と言い出した。

当時の五城寮は体育会以上の年功序列。
同期内でも浪人などをした年長者が威張っていた。
その人は三浪していたので、文句なしに言うことを聞かないといけない。

出掛けた風呂屋はやはり清潔だった。
清潔であるから「柚子湯はウチの風呂釜に悪い。」という理由で
柚子湯はやっていなかった。
今、思い出しても残念である。

勿論、その年長者がいない場所で、他のメンバーは
柚子湯の一件の悪口を言ったものである。

柚子湯張る何所かに恨む人のあり

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ジャコビニ流星群

 毎年恒例のりゅう座流星群(ジャコビニ流星群)。今年は13年周期の当たり年で、
10月9日には「流星嵐」が起きそうだ。日本でのピークは午前3~5時と見られている

(以下略)
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20111007001&expand#title

スイマセン。この記事をmixiで見るまで、
マスターは「ジャコビニ流星群」は1972年だけだと思っていました。

マスター中学1年の秋。メディアはこぞって「世紀の宇宙ショー」、
「都市部ではネオンを消して流星観察に協力するビルが続出。」と伝えていました。

当時の担任の先生の専門は理科だったので、当然先生は力を入れて流星群の
話をしていたものです。

で、どうなったか。 当時を知っているひとはご承知の通り。
知らないひとは下にアップされている松任谷由美さんの曲をお聞きください。


「宇宙ショー」の翌日、
担任の先生は「残念だったねー。」と苦笑されていました。

松任谷さんの曲。
未来は霧の中に」と似たコンセプトで佳曲と思いますが
’79年の発表当時は話題にならなかった(ヒットしなかった)ような気がします。
当時は松任谷氏は「低迷」状態。ヒットチャートから遠ざかっていました。
実はこの曲も今回初めて知った次第。

秋の星見つめる瞳に老い眼鏡

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マスターはあの予備校生の大先輩

木曜夜より父の昏睡状態が始まったと
金曜の朝にマスターの携帯に電話が入った。

母の例からみて、週末に亡くなることが予想された。
以前より上司には父の状態を連絡していたので、
翌週の仕事の段取りを済ませて、終業後東北新幹線に飛び乗る。

父は一見普通通り休んでいる様子だった。
下顎呼吸やチェーンストークは見られない。
しかしヘルパー・看護師さんが付けている日報を読むと
「看取りの時期」に入っているという。
とりあえず連れ合いには時間があれば土曜日の夜にでも
仙台につくように連絡する。

土曜日の朝となった。父の容態は変わらない。
おそらくXデーは夜か、翌日曜だとマスターは踏んだ。

連れ合いは「胸騒ぎ」がするので早朝に東京を経ち、
午前中に仙台に新幹線で到着するという。

今週初めまで、健気に見舞客と一緒に写真に収まっていた父。
母と違い病状は劇症(進行が速いという医学用語)のようだ。

マスターは胸騒ぎ一つしないので、
父のカメラに収まっていた写真のことを相談するため
父の懇意にしていたカメラ店に赴く。

このカメラ店の近くにあの「京大携帯カンニング事件」
の少年が通っていた予備校がある。
そこは遥か30数年前にマスターも通っていた予備校でもある。

カメラ店の要件が済んだ後、予備校に足を運ぶ。

本館は立て直されて小奇麗になっていた。
「時節柄」か警備員が立哨していて撮影は憚れる。

以前と同じままの建物を二つ見つけた。
ひとつは駐輪場棟、上部の教室もそのまま。
向かいの建物も同じだった。
イメージは向かいの建物。
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今は使われていないようである。
マスター在学時、一階は食堂、二階以上は自習室に充てられていた。
「カツカレー」を初めて知ったのはこの食堂である。
280円くらいでボリュームがあった。

予備校時代の思い出にふけっていると携帯が鳴り現実に戻される。

焦りのみ思い出したり19春

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久しぶりの小料理屋

所用で久しぶりにかって住んでいた
独身寮近くの商店街に向かう。

用事が終わり、馴染みのある街並みを見渡す。
表通りから脇に入ったところに小料理屋の看板を見つける。
「そういえばこの店、寮の先輩に連れられてお邪魔したことがある。」
と思いだし、暖簾をくぐる。

改装されているが、カウンターに小上り一卓というレイアウトは変わりない。
猫の箸置きが緊張していた心を和ませる。
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女将さんに先輩の名前を出すと覚えていてくれた。
マスターにも話していたが
「母親が病身で帰らないといけない。」
「家業も継がないといけない。」
といったことを話していたそうである。
その先輩は結婚して寮を去ってからもこの店を訪れたそうである。

先に斃れたのは先輩自身だった。
帰郷して家業を継いで間もなくの事だった。
長年の東京のサラリーマン暮らしには、
北国の厳しい現実は体にこたえたのだろう。

他には客もなく、二人で先輩の思い出話にふける。

そろそろ上りという時に、確か先輩が上りにいつも頼んでいた
餅の煮込みみたいなのを思い出し、女将さんに尋ねる。
「すいとんですね。今でも作っていますよ。」
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出されたすいとんは器も味も二十年前のままだった。

亡き人の好物肴に古酒飲む

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フランス語の先生

14日の「朝ズバ!」でみのもんたが
「今日は『パリ祭』。私の学生のころはこれをネタに
 酒盛りをしたものです。」と言っていた。

みの氏の学生時代は、1960年代半ば。
そのころでもあの「池袋ウエストテーマパーク大学」でさえ
教養主義の名残があったようだ。

マスターのころは勿論そんな飲み会をしていない。
と言うより前期末試験のころで、その対策で飲み会どころではなかった。
「学内スケジュールカレンダー」が変わってしまったのだろう。

さて、学生時代のフランス語の先生はユニークだった。
ある先生は長髪で、青いジャケット着用。
音読のときはいつも目をつぶってフランス語に没入していた。
聞きもしないのに「夏休みはパリに出かけます。」と喋っていた。


別の先生はどこかひょうきんなところがあった。
雑談風に「パリの旧市街は山手線の内側程度で狭いよ。」と言って
学生たちを驚かせたり(実際三年後に出かけたパリはそうだった。
もっともその時はパリに出かけるとは思ってもいなかった。)した。

ある土曜日。韓国の朴大統領が暗殺されたニュースが流れた。
その先生の授業は土曜だった、また雑談で朴大統領の話をした。
先生は暗殺事件を知らなかったので教えると大変驚かれた。
学生でラジオを持ってきたのがいて、一緒にニュース速報を聞いた。

その先生。当時40歳程度だった。
授業を受けた翌年。図書館で「仏語版資本論」の日本語訳を探していたら
なんとその先生が翻訳者として載っていたので驚いた。

言われると学生運動の成れの果てのような風貌だった。

今でも、一人で全訳をするとはやはり偉いと思う。

もう一つ希望が欲しや夏来る

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