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初詣は靖国神社

元旦は東京は穏やかに迎えた。

昨年末にまたもや話題になった靖国神社に初詣。
P1000257.jpg
九段下から正面の参道を進みます。
歌謡曲「九段の母」にもうたわれた大鳥居。
他の有名寺社のように入り口から列をなしているのかと思いきや
そうでもない。ゆっくりと進む。

神社は東向きに作られているので正午を過ぎると一部日陰となる。
参道の両脇には田舎のお祭りのように飲食や土産物の小屋が並ぶ。
靖国で行事がある時にはよく見かける風景。
でも、戦没者の慰霊という建立目的からいうと
いくらテラ銭欲しさとはいえ俗すぎる。

この風景もヒトやクニによっては
「反省を知らぬネオ・ファシストの群れ」と表現するのでしょうな。

参道半ばに進むと、お馴染み大村益次郎の大きな銅像が見える。
P1000258.jpg
普段は他の寺社同様静かなので、こういう風にヒトが歩いているのは違和感を覚える。
大村益次郎は、マスターは大河ドラマ「花神」で初めて知った。
高校三年の受験の時でそれほど見なかったが、
歴代大河ドラマでは一、二を争う出来だと思う。
テーマソングもよかったので掲載する。




靖国の名に恥じぬ空初詣
(続く)

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人間禅 東北禅会 参禅会のご案内

参禅会のご案内


正しく・楽しく・仲よく
真実の自己に立って 一善の日送りを
第3回参禅会


どなたでも参加できます、初めての方歓迎します



期日:
3月21日(木)14時 ~ 24日(日)正午


場所:
人間禅仙台道場

(若林区南石切町14)


仙台地下鉄河原町駅下車徒歩7分


師家
:人間禅師家 千鈞庵  佐瀨霞山老師


会費:
参加費
1000円/1泊
500円/日帰り


食 費
300円/1食





<会期中、静坐とお茶を楽しむ会も開催>


3月23日(土)
10:00~12:00
静坐とお茶



13:00~15:00
平点前での稽古



詳しい
問合せ・連絡先



高橋智門
TEL
080 3272 3226

Eメール
letterbox_taka84@ybb.ne.jp





<基本日課>


起 床 午前 5時


静 坐 5時30分


参 禅 6時30分


朝 食 7時


作 務 8時30分


静 坐 10時30分


参 禅 11時30分


昼 食 午後 12時


作 務 2時30分


作務止め 4時30分


夕 食 5時30分


提 唱 7時


講後参禅


開 枕 10時

順路


http://asahimainiti11.blog94.fc2.com/blog-entry-2958.html



をクリックしてください。

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第二の人生、住職はいかが…寺が僧侶スカウト

約3400か寺を擁する臨済宗妙心寺派(大本山・妙心寺、京都市右京区)が、定年退職者を僧侶にスカウトする取り組みを始めた。

 ビジネスで得た経験を悩み相談や法話に生かしてもらい、住職のなり手がいない寺の再興も託す。来春にも高齢者向けの修行の場を整え、年25人程度を受け入れる。既に約10人が参加の意向を示しているという。

 僧侶には住職の子らがなるケースが多い。しかし、心の病や自殺、いじめなどの社会問題に対応するため、幅広い経験を持つ人材を集めようと企画。企業や病院と連携し、研修の講師や入院患者の相談相手を務めてもらうことも想定している。

 発案した同派僧侶柴田文啓ぶんけいさん(78)は、大手電機メーカーの米法人代表などを経て65歳で出家、無住寺だった開眼寺(長野県千曲市)の住職に。「自らをモデルケースに定年後の新たな選択肢を示したい」と話す。

 同派は今秋、僧侶になるためのQ&Aや修行内容をまとめたパンフレットを作成し、大手企業約300社に配布を開始した。

 話を聞いた約50人から問い合わせがあった。僧侶になる決意を固めた一人で、来年退職予定の会社員阿部博紀さん(64)(東京都杉並区)は「第二の人生は社会貢献に、と考えていた。就職や仕事に悩む人たちの心の問題に取り組みたい」と意気込む。

 専任の住職がいない寺は同派で1000か寺以上あり、うち約50か寺は兼務する住職も不在。副業がない場合、檀家だんかが200軒ないと生計を立てるのは難しいとされ、年金のある定年退職者は収入の心配が少ないことにも着目した。

(2012年12月30日14時15分 読売新聞)

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20121230-OYT1T00167.htm?from=ylist

日本人自体「無宗教」と思う人が多いようです。
でも、この季節神社仏閣に初詣をしたり、初日の出に手を合わせたり
する人は多いでしょう。 それは立派な信心です。
広い意味ではクリスマスを祝うのも結構。
そのうちダイエット目的でラマダンを始める人も出てくるかも。

一神教優位の宗教観に捉われなければ、日本人も立派な「宗教者」です。

というわけで、この記事はサラリーマンの「老後」について
示唆を与えてくれます。

マスターの両親が眠る寺院をはじめとして、地方の寺院は無住と化して
いくつかの寺院を一人の住職が看ているのが現状です。
マスターの両親の眠る寺は遠く岩手県の江刺市の寺の住職が看ています。
そのような無住の寺の住職になるのもよいでしょう。
出身地近くならなおよい。

記事には触れていませんが、住職には立派な経営感覚も求められています。
現役時代の特技・人脈を生かした経営手腕を見せれば、地元の人からの
「心の問題」ばかりでなく農業や地元企業のコンサルタント的業務も
増えてくるのではないでしょうか。地方農村の活性化も図れます。

もっとも、出家への修行の道は厳しいと思います。
年配者ゆえ配慮があるとは思いますが、それでも
若い入門者と同様のプログラムをこなす心構えは必須です。

出家修行の厳しさは当の妙心寺派のサイトにも明記してあります。

まずは近くの寺院や「人間禅道場」の座禅会や写経・法話会(他宗派でも構わない)などに
参加して、本当に「僧侶」として生きていく覚悟を自分で確認してから
改めて「発心」をしても遅くはないでしょう。

気になる点を一つ。「年金のある定年退職者は収入の心配が少ないことにも着目」
というのは少し図々しいのでは。まさに「衣の下から鎧」です。

「年金ビジネス」も結構ですが、その際は寺院経営がうまくいくまでは
本部への上納・寄付金にも配慮願いたい。


父母の慈恩を想えよ大旦(おおあした)



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出棺、火葬、通夜

月曜朝、地元紙に死亡広告が掲載された。
日曜日掲載は締切が間に合わなかったのである。
朝、死去をしって、その夜に通夜ではあわただしいが致し方ない。
もう一日欲しかった。
昼前、出棺である。
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父の遺体はワゴン車型の地味な霊柩車にのり、
長年勤めた大学の脇を通り郊外の火葬場へ向かう。
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火葬室の前で最後のお別れ。
火葬終了後は斎苑へ直行。
学者であった父は、お弟子さんや関係者が詰めかけると思われるので
葬儀屋のアドバイスに従い、100名を少し上回る程度の設定にした。

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「一度怒り出すと切りがない父があの世で怒っているのでは。」と
親戚皆心配したのでは言うまでもない。

ズラリと並んだ学界・学会関係者や親戚・趣味関係からの生花。
こぶりの会場では入りきれなかったろう。

通夜はやはり100人以上の人が訪れ、葬儀屋のカンは的中した。
東京と違い香典を置いたらそそくさと帰る人は少なく、
ちゃんと座って最後まで皆付き合った。
もっとも「お浄め」の酒食は辞退する人がほとんどなのは
仙台も東京も同じ、余った食事は折詰にして関係者に分けた。
香典の勘定で、通夜に列席できなかった親戚もいるのである。


斎場の生花でようやく春感じ

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父の葬儀

「死に方」の指図書を改めて開いた。
内容は生前から他人によく見せていたのでわかっている。
自分の戒名から始まっている。枕経をしてくれる僧侶も指定してある。
葬儀屋もだ。もっともこれらは母の時にも世話になった皆さんである。

ガンの場合は「事前連絡・根回し」ができるので、
年末の父の入院時に連絡していたように、二人ともすぐに来てくれた。
葬儀屋は僧侶の寺に出向いて僧侶の送迎もしてくれた。
枕経が読まれる。
IMGP0021_convert_20110323062603.jpg

枕経の後、納棺。
納棺師は母の時も世話になった背の高い若い女性。
痩せこけた父の顔を綿を含ませたりして、きれいに直してくれた。
こうして応接間には仮祭壇が設けられた。
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納棺の時葬儀屋はベッドをすぐに病院側が持ち去るのを心配していた。

死去の報を聞くと、次の待ち患者に回すため、
納棺を待たずにベッドを持ち去る病院もあるそうだ。
幸い父の世話になった病院はそのようなことはなく、
のちに連絡して、こちらの都合の良い日に引き取ってくれた。

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イメージはそのベッド。

春の日を浴びつつ父の死水取る

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仙台大観音に初詣2

エレベータで上に登る。
上層階は周回式の展望台になっている。
窓から外の風景を覗く方式だ。
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観音から北側の泉ヶ岳方面を望む。
観音のある「実沢」はマスターが高校時代は田舎の代名詞だった。
ここから通ってくる同級生の家がスキー場へ向かうバスから良く見えた。
(もちろん田んぼの中)。
それが今や郊外住宅地に変貌している。
スキー場に近いためか、生家近辺にない雪が積もっている。
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観音の頭部にいるのかと思ったら、実は胸のあたりだった。
ちょっと残念。
01010016.jpg
このあとは大きな螺旋階段に従って下へ降りる。
エレベータ部を囲むように諸仏が並んでいるが、いずれも
新作(大量生産?)で、あまりありがたみは感じない。
01010017.jpg
内部は吹き抜けになっているので、
諸仏はご覧のように重層をなしている。
怪奇物の映画のロケに使えそうだ。

再び一階に降り、受付でオリジナルの観音線香を買う。
ひと箱千円だから安いものだろう。

父が倒れたおかげで思わぬ拝観ができた。

初詣平安祈れる幸せよ

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仙台大観音に初詣1

元旦に父の病室を見舞った後、初詣の話となる。
病室の窓から見える「仙台大観音」にすることにした。
携帯のサイトから道順を調べる。
一旦東北自動車道のそばまででて、そばを通れば何とかなるようだ。

確かに迷いながら「何とか」たどり着く。
すでに16時を過ぎていた。
観音像の裏側から入ったようで、正面に向かうまで時間がかかった。
下から見上げるとやはり大きい。
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観音の胎内へは龍の口を模した入口から入る。
シンガポールのタイガーバームガーデンを思い出した。
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入場券売り場らしきものはなかったのでそのまま歩くが
すぐに女性係員に呼び止められる。
売店のレジが入場券売り場を兼ねているようだ。
胎内には十二神将をはじめとする、諸仏・神像が並んでいる。
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十二神将は当然干支にちなんだ守り神である。
卯年の守り神を撮影する。自然光のみなのでぶれてしまった。

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彫像を一回りするとようやく展望台へのエレベータへ到着。
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エレベーターというより
火葬場の火葬室の扉を思わせて良い気分でない。(続く)

幾十の神を一度に初詣

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立教大学と太平洋戦争 7

2001年11月、チャペルの敷地内に「平和の碑」が建立され
学院関係者の戦没者名簿がおさめられました。
(写真はネット上にありませんでした。そのうち
池袋を訪れる機会があれば撮影アップします。)

さらに立教大学では、これらの研究成果をもとに
「立教学院と戦争」という講座を開講しています。
受講者の声もお聞きください。

また、拙記事とかなりかぶりますが、
「写真で見る立教学院の歴史 第三章」にも
必ず目を通してください。

今もある本館からの学徒出陣風景、キリスト教式時代の戦没者慰霊祭、
チャペルの傷跡を検分する軍服姿のラッシュ博士など、
当時と同じ学び舎に学んだマスターからみれば
生々しく感じる写真が見られます。

過去記事の産経のエッセイだけを読んでいると
戦没者慰霊碑はいまでも存在しないような書き方ですが
そんなことはありません。

もちろん「平和の碑」建立には一悶着あったようで
その混乱の中で、大学側からエッセイにあるような
言葉が出たものと思われます。
池部氏のエッセイについては、同名の本は見つかりませんでした。
おそらく氏の数あるエッセイ本のひとつにおさめられているのでしょう。
ご存じの方はご教示ねがいます。

産経新聞は「錆びついたドス」を
錆に気が付かないで振り回したのは明白です。

産経新聞に対しては立教学院は
抗議をすべきとマスターは考えます。
マスコミの「書き飛ばし・書き流し」にはきっちりと対応すべきです。
「戦没者をないがしろにしている大学など受験するな。」
という親・教師が出てからでは遅いのです。

最後にこれも戦時中「自由の学府」という歌詞が「自主規制」に
引っ掛かって歌われなかった(別の校歌を作った)
立教大学の校歌を以てこの記事を締めたいと思います。



十字架を背負いし学び舎ツタが這う


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立教大学と太平洋戦争6

(前記事続く)
やがて敗戦を迎え、ポール・ラッシュ博士が
再来日したことは過去記事に書きました。

ラッシュ博士の怒りを買った日本人理事たちは
公職追放の憂き目に遭います。

なぜラッシュ博士が激怒したか。
それは米人理事が退任・帰国する時に、
理事会では「建学の精神(キリスト教主義)は
変えない。」と日本人理事たちは誓約していたのです。
その時の理事たちが「棄教」をしたのです。


契約社会に生まれ育ったラッシュ博士の怒りは
我々の想像を絶するものだったでしょう。

「本格的な再建は、1946年6月に各校の総長・校長に就任した
都立高等学校(現・都立大学)校長・佐々木順三によって着手された。」

(WEBより)
私事になりますが、マスターの指導教授である近藤晃先生は
都立高等学校のご出身です。海軍兵学校を敗戦による中退のあと
一応都立高等学校は卒業扱いだったので、立教大学に進学されます。
つまり、違う高等学校・大学なのに校長は同じということになります。

なぜ、このような「棄教」が行われたかのか。
それは立教におけるキリスト教の位置づけも一因だと思います。
マスターの在学当時でも、大学では礼拝は必修ではなく、
また一般教養の「キリスト教倫理」も必修ではありませんでした。
これはキリスト教主義大学にとっては珍しいほうだと思います。
大学側は「キャンパスに満ちているキリスト教の雰囲気で
キリスト教主義を学生たちに感じさせる。」と説明していました。

でも、これはちょっと弱すぎる。
戦前もそうだったかは知りませんが、
都会的なスノピズムとひ弱さを感じさせます。
(だからと言って礼拝とキリ倫の強制もいやですが)
同書の当時の学生分析にもあるように
戦前から首都圏の自宅通学者が多く、
親の仕事はサラリーマンか裕福な自営業者、
地方出身者でも、下宿屋よりはアパート暮らしを選んだ
学生が比較的多かった校風
(他大学で学生のアパート住まいが多くなるのは
 高度成長期以降)の悪い面が出てきたのかもしれません。

一方ラッシュ博士。
「棄教」を選択した教職員にとって博士の再来日は
悪夢であったと思われます。
公職追放に遭わなくても、なるべくならば博士を敬遠したい。
バツが悪いとでもいうのでしょうか。
この辺の感情が博士への「冷遇」の一因と思います。

(続く)
※こんなに長くなるとは思いませんでした。


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立教大学と太平洋戦争5

(前記事続く)
以下、ほとんど同書からの引用となります。

同書を読んでいると、実は戦没者慰霊碑にあたるものは戦前すでにありました。
1939年(日中戦争時)に第一回の戦没者慰霊祭が行われ、この時点で大学側が
確認した9名の戦死者(ほとんどが卒業生)の名前を刻んだ
タブレットが除幕されています。
以後、慰霊祭は毎年6月に行われ、そのたびに戦死者の氏名は
タブレットに追加されます。(このタブレットは現存しているらしい。)
もちろん慰霊祭はキリスト教式で、チャペルにて行われており
第一回の慰霊祭には当時のライフスナイダー総長をはじめとする
米人理事たちも列席しています。
つまり当時アメリカ本国は中国側の方を持っていましたが、
米人理事たちはその方針とは違い、あくまで日本側の事情を
優先させました。(他例として靖国神社参拝も公認している。
先の植村氏の遺書で「九段へいらっしゃい」という文が
あることに注意。)

このころから大学組織も戦時下に合わせて改組され
1941年4月からは学生のクラブ活動などを「報国団」として
組織化、学業成績にも加味することを始めています。


その後日米関係は悪化の一途をたどります。
1941年8月。立教学院の米人理事二人(ライフスナイダー他一名)も辞任。
帰国の途につきます。米人で一人残ったポール・ラッシュ博士も
前述のように日米開戦とともに抑留されます。

こうして立教学院から米英国人の姿は消えます。
それでも1942年6月の慰霊祭は例年通りキリスト教式で
チャペルでおこなわれ、タブレットに戦没者の名前が追加されました。

ところが同年9月「学生暴行(騒擾)事件」が勃発します。
15年戦争の中、学内教職員・学生らにも「反キリスト教主義」を
公然と唱える者が現れ始め、その中の学生が教職員を巻き込んだ
「暴行事件」を起こしたようです。
同書でも「詳しいことはわからない。」と述べていますが、
ひょっとしたら関係者に存命者がいて遠慮しているのかもしれません。

一部学生・教職員からの暴力的突き上げと文部省の指導の板挟みにあった
大学当局は、はやくも同年9月中に「キリスト教主義教育」の廃止を「決断」、
チャペルを閉鎖します。

この辺、四半世紀後の大学紛争時に
各大学が陥ったジレンマを想起させます。

文部省は文系学部を不要不急のものと考えていたようで
当時、文学・経済のみの立教大学は統廃合の可能性がありました。
そのため不祥事に関しては必要以上に対応せざるを得なかったのかも
しれません。

立教大学は存続のために、当初は聖路加病院を母体とした医学部の設置
を試みますが、病院側・所轄の厚生省の反対・文部省の消極姿勢もあり頓挫。
やがて理科専門学校(現理学部)を設立。
さらに文学部を事実上廃止。学生は慶応など他大学に転校させます。
こうして、立教大学はハードは残ったものの、
ソフトは入れ替えられてしまったのです。

43年、44年の戦没者慰霊祭は神式で行われ、
タブレットへの戦死者の刻印はなされませんでした。
閉鎖したチャペルは当初物置、その後は食糧倉庫
(一説には漬物置き場)と成り果てます。

神道での慰霊祭については、当時賀川豊彦も
「キリスト教を信じる信念がなさすぎるではないか。」と非難しています。

言うまでもなく1943年秋には学徒動員が行われます。
現時点で394名の立教関係者の戦没が確認されています。


(続く)





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