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二千円札の利用を呼びかけています。画像欠落記事はコメント・  メールにて遠慮なく連絡ください。気付き次第復旧致します。

ツガルさん死去

「ツガルさん、たくさんの思い出をありがとう」――。横浜市立野毛山動物園(同市西区)で飼育され、世界最高齢のフタコブラクダ「ツガル」(雌、推定年齢38歳)が23日夜、老衰により死んだ。

 人間の年齢に換算すると120歳のおばあちゃんで、ご長寿ラクダ「ツガルさん」として人気だった。10年ほど前に前脚に関節炎を患い、立てなくなったが、イベントがあると、顔を上げて愛嬌あいきょうを振りまいた。

 2012年4月には同園のシンボルとして、「営業部長」になった。昨年はツガルの長寿を祝おうと、ラクダ形の折り紙を募集したところ、目標の1000個を大きく上回る1万個以上が集まった。

 飼育担当の山口進也さん(40)は「死んで悲しいけれど、ツガルさんには色々教えてもらった。大往生だと思う。ありがとうと言いたい」と話した。

 同園は24日、オリの前に折り紙を飾り、献花台を設置。メッセージを書くノートも置いた。多くの人が訪れ、ツガルの好物だった黒砂糖やリンゴを供えたり、ノートに思い思いの言葉やイラストを書いたりしていた。

 茅ヶ崎市の小学4年山本くるみさん(9)は「ツガルさんは、みんなに笑顔を届けてくれた。もっと生きてほしかった」と残念そう。横浜市南区の幼稚園教諭補助、十日市有子さん(47)は「動けなくても一生懸命生きているツガルさんを見て励まされた。これからも忘れない」と話した。献花台は6月20日まで設置される。

http://www.yomiuri.co.jp/local/kanagawa/news/20140524-OYTNT50500.html

24日から拙ブログに「ツガルさん」の検索で
マスターの過去記事にアクセスする方が出てきました。
不審に思ったマスターも検索すると訃報の記事を見つけました。
実はマスターは24日に所用で横浜に出かけていたのです。
もし、彼女の訃報を知っていれば野毛山に足を運んだでしょう。残念でなりません。

ツガルさんには記事にした御縁もあり、ちょうど昨年の今頃
野毛山動物園に出かけてお目にかかりました。
過去の記事の様に足が弱まって坐っていましたが
元気な姿を見て安心したものです。

横浜には近々また出かける予定がありますので、
その時には献花台にも出かけようと思います。

訃報知る安居の行が始まれる

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マスターの山仲間の息子さんの葬儀

首都圏某所で、私の山仲間の息子さんの「お別れの会」が開かれ、
私も他の山仲間と一緒に列席させていただきました。
会場は故人夫婦の若い同僚・友人たちで埋め尽くされ、どうしても中高年が多い
普通の葬儀とは違い「夭折」の二文字が頭をよぎりました。
まず式典をキリスト教式にした理由を神父さんから説明を受けました。
故人の叔母さんの葬儀が叔母さんの入信していたキリスト教式だったそうです。
それに列席した故人が「お母さんの葬儀は、明るくキリスト教式でするから。」
と述べていたのを故人の母親が覚えており、個人の「遺志」を尊重したそうです。
故人が屈託なく、しかし ネットで叩かれているほど
「能天気」ではない30年間を生きてきた事がこの一件でも よくわかりました。

 大学進学も就職も決して一筋縄ではいかなかった旨、説明がありました。
故人の幼馴染、学生時代の友人でマスコミ勤務の方、親戚の弔辞、
そして療養中で列席がかなわない奥様からのメッセージが
淡々としかし涙交じりで読み上げられました。
故人が結婚式の直前に両親に送った手紙の文面は
故人がいかに自分より他人を思いやる人に成長したかを
自ら書き記していました。

故人にこれほどの文才があるとは驚きました。
残念です。

社内婚ですが、故人の勤め先の上司・役員などの
弔辞はなく、あくまで「個人」としての葬儀進行が
行われたのは、やはり「若い会社」ゆえの理解があるからでしょう。
創業年数を威張るだけのカイシャではこうは行きますまい。

マスコミには明かされていない、旅行の詳しい日程、
事件の最後の様子なども伺うことができました。
(何を言ってもネットで叩かれるからでしょう。
賢明な判断だと思います。)

齢30での夭折・横死ゆえ、会場では列席者のすすり泣きが絶えません。

「結婚式の『花婿の父』となって一月もたたないのに、
『花婿の喪主』となってしまった。」
 「まだ、息子の『新居』に出かけて後片付けができない。」
 「息子はどこか遠い国に赴任したものと思っている。」
  と、息子さんの死をいまだ受け入れられない
  お父さんの言葉が胸に刺さります。

「これからどうやって生きていけばよいのだろう。
天国があるならば、あの時一緒に死んでいればよかったかも。」
と今の思いを書き綴った奥様。(神父さんが代読)
奥様は典型的なPTSDに罹患しているようです。

列席者一人ひとりは、おそらく自らの無力さを噛みしめたかと思います。

終了後、山仲間で近くの居酒屋でお清め。
「お父さん」があの状態では、しばらく山行は勿論のこと、
飲み会も本人が息子さんの死を受け入れ、元気を回復し
さまざまな問題に目途が着くまで中止しましょうと
話をしました。

弱き陽や黒き服に消え去りぬ

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マスターの仙台育英会五城寮の先輩 アルジェリアに果つ

南三陸出身の伊藤文博さん 中学同級生「故郷復興の意見聞きたかった」2013.1.26 00:04

 伊藤文博さん(59)は、日揮でアルジェリア事業を担当していた。伊藤さんと同じ宮城県南三陸町の中学校に通っていた同級生で、公立志津川病院(同町)の横山孝明事務長(59)は、伊藤さんが遺体となって帰国した25日、「何かの間違いであってほしいと思っていたが、願いはかなわなかった」と肩を落とした。

 伊藤さんの母、フクコさん(82)は東日本大震災で被災、仮設住宅で暮らしている。横山さんは「被災からやっと立ち直ろうとしていたときに、最愛の息子を失ったお母さんにかける言葉が見つからない」と話した。

 今年2月に開催する還暦を祝う同窓会には、伊藤さんも出席予定だった。会では震災で亡くなった同級生らとともに伊藤さんの追悼も行うという。横山さんは「故郷の復興についても考えていたはず。意見を聞きたかった」と悔しがった。


http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130126/crm13012600050000-n1.htm

伊藤さんの記事は日本政府がテロの犠牲者氏名を発表する前から、
記事が出ていてマスターも見ていました。
たしか昨日、五城寮OB会の幹事さんからメールが来て、
伊藤さんは五城寮の先輩だと知らされました。

もちろんマスターとはやや年が離れており伊藤さんとは面識はありません。
当時は高専出身者の多くはそのまま就職する時代でした。
マスターの勤務先にも、伊藤さんと同世代の高専出身者がいまでも多く活躍しています。
その時代に高専から大学編入(東工大)を果たした伊藤さんは
かなり優秀な方だったと思います。
在寮は大学編入後の二年間のようだったようです。

あの大井町の古びた木造二階建てで過ごされた方と知ったときから
伊藤さんはただの匿名の人から、まるで古くからの知人のように
感じられます。「同じ釜の飯を食った仲」とはそういうものなのでしょうか。
伊藤さんと寮で面識のあった方のブログがありましたので紹介させていただきます。


伊藤さんの無念さを思いながら、祈らせていただきます。

またしても訃報知るなり鍋煮える

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森光子さん死去

前記事に続きます。
実はマスター、インタビューはもう一件受けていた。
TBSのテレビクルーは号外の右下を指さして
「森光子さんが亡くなりましたが、どう思いますか。」
と質問を受けたのだ。

マスターは「『時間ですよ』を毎週見ていたので残念ですね。」
とあたりさわりのない返事をした。

焼き鳥屋では常連たちは「衆院解散よりこちらのほうがニュースだ。」
と騒いでいた。

こちらもボツになったのだろう。
翌日の勤め先ではだれも見ていなかったようだ。

帰宅後パソコンを立ち上げた。
すでに引退している勤務先の先輩からメールが届いていた。
開くと「今朝の『朝ズバ』で森光子さん死去のニュースで
貴殿へのインタビューが流されていました。」と書いてあった。

ありゃ「23」ではなく「朝ズバ」だったのか。

何時ころに放送したのかは書いてなかったが
マスターの勤務先は始業時間が早いので、あまり
職場の人は見ていなかったのだろう。

ちなみにマスターは朝はNHKしか見ていない。
「朝ズバ」はみのもんたが騒がしくみていない。
みの氏は大学の先輩だがそこまで義理掛けはしない。

金曜朝。その件を職場で話すと後輩が
「マスターさん。今日はテンション高いですね。」と言われた。

テレビにちらっと映っただけで大騒ぎするとは我ながら驚いた。
同時に例のiPS細胞の論文ねつ造(?)で話題になった
森口さんのハイテンションぶりも思い出した。
テレビに取材を受けるということは
「興奮」することが身を以て理解できた。

森光子さんに話を戻しましょう。
時間ですよのテーマソングは一時
「東京下町あたり」というタイトルで
歌詞が付けられ森さんが歌っていた。
レコードが出ていたと思ったらやはりアップされていた。
彼女の歌声を聴きながら、ドラマシーンの数々を思い出そうか。

暮れ早し懐かしき声はもう聞けず


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岡部健先生の法人葬に参列

半月ほど前、仙台の叔父夫婦より電話があった。
マスターの両親を看取ったターミナルケアの専門医、
医療法人社団 爽秋会の設立者
岡部健先生が亡くなったことが新聞に載っていたそうである。

法人葬が行われる日は、マスターは別件で仙台に帰る予定だった。
別件の相手には事情を話して中座することを了承してもらい、
葬儀に参列することにした。

岡部先生の看取りについては、とりあえず拙過去記事
「看取りの心得」
「「死期予告」の男女差」
を読んでいただきたい。

なお拙ブログ「介護」カテゴリー内でも
岡部先生の言葉が他にも採録されている。

これらの記事で「主治医」「医師」と書かれているのが
ほとんど岡部先生である。

一報に接したとき、マスターの胸中では
「くるべきものが来たか。」という思いが去来した。

母の看取り(2009年9月)のときは岡部先生は元気で、
マスターと共通の趣味である登山の話をされる余裕があった。

その後、先生自身もガンを発症された。

父の看取り(2011年3月)のときはすでに入院の経験があり
父の枕元で「私自身も患者となったことで初めて解ったことが
ありました。」と話をされていた。

父の葬儀後、先生にお会いすることはなかったが
訃報を聞いて最晩年のインタビュー記事と写真を見ると
かなりやつれていらしており
元気なころの先生を知る身としてはなんとも痛々しい思いがした。

仙台宅を出て地下鉄に乗り、葬儀場近くの駅で降りる。
マスター同様の喪服姿の人たちが多く歩いている。
みな先生の葬儀に出るのだろう。
葬儀場は父の葬儀を行った場所でもあった。
もちろん、先生の葬儀の方ははるかに広い会場である。
受付で記帳。式次第と先生の略歴・言行が書かれたパンフレットをいただく。
葬儀パンフ表
見開き
葬儀パンフ開き
会場に設定されていた遺影の飾りつけは質素で故人の遺志を感じさせた。
法人葬

六人もの方が弔辞を読まれた。
三番目に読まれた女性の方は、
途中で故人の思い出がよぎりはじめたのか泣き出した。

どの弔辞でも、先生の穏やかなしかし自らの仕事には厳しかったこと、
山歩きと酒(だから胃がんになったのだろう)を楽しまれたこと。
3・11以降の犠牲者の慰霊、被災者・遺族への心のケアに
自らの病をおして奮闘されたことに触れていた。

弔辞の最後にノンフィクション作家の柳田邦男氏からの弔辞が代読された。
以前から付き合いがあり、死去直後にも死顔を拝見されたそうである。

息子さんの(二十代後半?)の謝辞のあと、
マスターも含む一般参列者は順に焼香をしてそのまま会場を後にした。

みちのくに名医ありけり菊枯れる

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諏訪根自子さん死去

戦前に天才少女とうたわれ、いち早く海外でも演奏活動を行った伝説的なバイオリニスト、諏訪根自子すわねじこ(本名・大賀根自子)さんが、3月6日に脳梗塞後遺症のため、都内の自宅で死去していたことが24日分かった。92歳だった。

 東京生まれ。12歳で初リサイタルを開き、神童と騒がれた。16歳でヨーロッパに留学し、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団などと共演したほか、ナチスドイツの宣伝相ゲッベルスから名器ストラディバリウスを贈られた。

 1945年に帰国。60年頃に演奏活動の第一線を退いたが、81年にはバッハの「無伴奏バイオリンのためのソナタとパルティータ」の新録音を出し、再び注目を集めた。

 ノンフィクション「美貌なれ昭和―諏訪根自子と神風号の男たち」を書いた作家の深田祐介さんは「美貌と実力を兼ね備えたアイドル的存在で、私もブロマイドを持っていた。戦争がなければ、もっと活躍できたでしょう」と話している。

http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20120924-OYT1T01416.htm


なぜかこの記事タブをうっかり閉めてしまい書き直しを余儀なくされています。
マスターは過去記事で彼女に触れています。

そのせいか、訃報が流れた直後から拙ブログのアクセス数が普段の数倍となりました。
「鹿島丸」で手を振る写真は、今は拙記事にしかないようで、
画像検索から来る方も多いようです。

鹿島丸は1943年に潜水艦の攻撃で沈められました。

彼女は戦後は高度成長のころから引退状態になります。
深田氏の「美貌なれ昭和」も今は再版されておらずプレミアがついています。
(捨てなければよかった。)
テレビドラマもVTRは残っているようですが、ソフト化されていません。
静かに生きたい彼女の意向がこれらの作品を「封印」したのかも。

訃報で初めて彼女の美貌に触れた若いネットユーザーたちは
「昭和凄いっす!」「AKBなどかなわない」と
突然の「戦前ブーム」を起こしています。

ゲッペルスからもらったストラディバリウスは
やはり若い世代のバイオリニストの手に渡るのでしょうか。

動画サイトで「美貌なれ昭和」のVTRを見つけました。
家庭録画を編集したもので、彼女の訃報とほぼ同時に
アップされたのも何かの因果でしょう



諏訪根自子振り向きたるや秋の道



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H・デービッド氏死去 「雨にぬれても」作詞家

ハル・デービッド氏(米国の著名作詞家)米メディアによると1日、
脳卒中による合併症のためロサンゼルスの病院で死去、91歳。

 ニューヨーク生まれ。ニューヨーク大でジャーナリズムを学び、第2次世界大戦への従軍を経て
作詞家の道へ。1960~70年代を中心に、作曲家バート・バカラック氏とのコンビでヒット曲を連発した。

 69年の映画「明日に向かって撃て!」の挿入歌「雨にぬれても」はアカデミー賞を受賞。
ブロードウェーのミュージカル「プロミセス、プロミセス」の音楽でグラミー賞を受賞した。

 ほかの代表作「遥かなる影」、「小さな願い」なども世界中のアーティストが歌った。
80~86年に米国作曲家・作家・出版社協会(ASCAP)会長を務めた。(共同)

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http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/120902/ent12090213430006-n1.htm

バート・バカラックの曲は日本でも流行しました。
作詞者の方は日本では洋楽ということもあってあまり話題にならなかったようです。
今回の訃報もネット上ではあまり話題になっていません。

この記事に挙がっている三曲共にマスターは好きというか思い入れがあるので
気になり記事にしました。
「雨にぬれても」は過去記事を参照してください。

「遥かなる影」はカーペンターズの日本デビューシングルとして有名です。


「小さな願い」。申し訳ありませんがこれはポール・モーリア版
(つまり歌詞がない。)で勘弁願います。
中学校の昼休みの給食時間、校内放送ではイージーリスニングが流れていました。
この曲はその時初めて知った曲なので。
この「昼休みのイージーリスニング」については記事が書けますので
お楽しみに。


他にも「サンホセへの道」(今回歌詞を初めて読みましたが、大人の歌詞です。)
「何かいいことないか子猫チャン」などがマスターの耳になじみ深いです。

こういう一般ポップス系は10代のころは見下して、ハードロックしか聴いて
いませんでしたが、今聞くとなかなか味わい深いです。

向日葵の花も垂れけり午後三時

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西丸震哉氏死去

「41歳寿命説」など一般の人にも知られていた
登山家の西丸震哉氏が5月24に死去された。


西丸氏の業績を展示している長野県大町の「西丸震哉記念館」の
ホームページで発表されたのが6月26日である。

登山や食品問題について多くの著作があり、
マスコミも記事やインタビューが多く出ていたのにもかかわらず
死亡記事・追悼記事は日本山岳会のページに連絡事項扱いで
載ってるのを確認できたに過ぎない。

おそらく西丸氏の「遺志」で
徹底して記事の掲載を遠慮しているのではないかと思われる。

「1959年以降に出生した日本人は、食品が汚染・加工されているので
41歳までしか生きられない。」という「寿命説」は発表当時
センセーションを引き起こしました。

マスターなどまさに「1959年以降」に引っかかっているので
もしやと思いましたが、幸い今に至るまで元気です。

他にも登山関係のユニークなエッセイを残しています。
マスターも何冊かは読みました。過去記事で触れています。

死因など不明ですが、1923年生まれと高齢ゆえ大往生だったと思います。

改めてご冥福をお祈りいたします。


盂蘭盆やなつかしき人の訃報しる



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朝鮮民主主義人民共和国最高指導者 金正日氏死去

 [ソウル/東京 19日 ロイター] 北朝鮮の国営テレビは19日、
最高指導者の金正日総書記が17日に死去したと報じた。69歳だった。

 アナウンサーは喪服を着用し、涙ながらに金総書記が地方視察に向かう途中に
過労のため亡くなったと伝えた。また、国営の朝鮮中央通信社(KCNA)は、
金総書記の三男の金正恩氏について、総書記の「偉大な後継者」、
「わが党や軍、人民の卓越した指導者」と表現し、権力継承者であることを示唆した。

 KCNAによると、金正日総書記は17日に列車の中で重度の心臓発作を起こし、
18日に行われた検視で死亡原因が確認されたとしている。

(以下略)
http://jp.reuters.com/article/marketsNews/idJPTK804571420111219

改めて、金氏のご冥福をお祈りします。
日本国とは隣国ながら、お互いに敵視政策をとっているからでしょうか、
急死した隣国トップ・国民への悔やみの言葉が見当たらないのが残念です。
北朝鮮政府も、急死時の詳しい状況を説明していないというのは
現役トップの急死の対応としては残念です。

以前にも書きましたが、太平洋戦争末期、
米国のルーズベルト大統領が急死したとき(1945年4月12日)
すでにベルリンにソ連軍が攻め込む直前のヒトラーは
死去したルーズベルトをののしる演説をしました。
しかし、日本の鈴木貫太郎首相は、
「今日、アメリカがわが国に対し優勢な戦いを展開しているのは
亡き大統領の優れた指導があったからです。私は深い哀悼の意を
アメリカ国民の悲しみに送るものであります。
しかし、ルーズベルト氏の死によって、アメリカの日本に対する
戦争継続の努力が変わるとは考えておりません。
我々もまたあなた方アメリカ国民の覇権主義に対し
今まで以上に強く戦います」
という談話を世界へ発信しています。

野田首相も「情報収集を指示。」だけとは言わないで
隣国の指導者の急死に哀悼と同時に、日本の立場を改めて
訴える声明を出すべきではないでしょうか。

人の死をまずは悔やめよ月が凍つ

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北杜夫氏死去 氏の東北大学時代の逸話

小説「楡家(にれけ)の人びと」やユーモアあふれるエッセーの「どくとるマンボウ」シリーズなどで知られる作家の北杜夫さんが、24日亡くなりました。84歳でした。

北杜夫さんは昭和2年、東京に生まれ、東北大学医学部に在学中から小説を書き続けました。大学を卒業後、船医として水産庁の調査船に乗り込んだ体験をユーモラスに描いた「どくとるマンボウ航海記」が昭和35年にベストセラーになったほか、同じ年に発表した、ナチスに抵抗する精神科医を描いた「夜と霧の隅で」が芥川賞を受賞し、作家として本格的に活動を始めました。その後も、自身の家系をモデルにして三代にわたる精神科医の一族の没落を描いた「楡家の人びと」や、明治時代にブラジルに入植した日本人移民を取り上げた「輝ける碧き空の下で」などの純文学作品でベストセラーを生み出す一方、ユーモアあふれるエッセーや紀行文なども手がけました。父親は歌人の斎藤茂吉で、平成3年から平成10年にかけて発表した、4部作の「斎藤茂吉伝」で大佛次郎賞を受賞しました。北さんは、最近は若いころに集めた昆虫の標本を集めた展示会を開くなどの活動を続け、去年、人気シリーズの最新作「マンボウ家の思い出旅行」を出版しました。今月1日には長野県軽井沢町で開かれたトークショーにも出席しましたが、今月23日に体調を崩して入院していました。

北杜夫さんと同人誌の製作を通じて知り合い、60年余りにわたって親交のあった、作家の佐藤愛子さんは、「北さんと私は互いに20代で文学を志し、作品の批評をはじめ何でも言いたいことを言い合える仲で、肉親のような親しみを感じてきました。同人誌のほかのメンバーはすでに亡くなっていて、突然の訃報を悲しみ合う仲間もおらず、今はただ喪失感に襲われています」と話しています。

ドイツ文学者で、北杜夫さんと親交があった東洋大学名誉教授の岡田朝雄さんは、「今月1日に北さんとお会いしたときはお元気な様子だったので、突然の知らせにただ、びっくりしています。北さんは硬派の文学でも多くの名作を残したが、一方で日本文学にユーモアを取り入れて成功した希有な作家だった。ご冥福をお祈りします」と話しています。

北さんと長年にわたって親交があり、対談を行ったこともある動物研究家でエッセイストの畑正憲さんは、「北さんの書く文章は大騒ぎをしないのにくすくすと笑えるユーモアがありました。私も『どくとるマンボウ航海記』以来の大ファンで、北さんに傾倒していました」と話していました。そのうえで、「昨年、電話をしたときも元気そうだったので、思いもよらず、本当にショックです。小さなマンボウを剥製にして送ろうと思って用意していましたが、畏れ多いこともあってなかなか直接会えず、生前に渡せなかったのが残念です」と話していました。

北さんと同じ大学病院に勤め、同人誌での活動を通じて60年近く親交がある、小説家で精神科医のなだいなださんは、「ことし8月に軽井沢にある北さんの別荘で会ったときには、私にお見舞いの品を贈っていただき、元気だったのに非常にショックです」と話しました。そして、「北さんの書く文章は、父で歌人の斎藤茂吉の影響もあって、和歌のようにことばを一つ一つ選んでいる印象がありました。それでいて文章も本人もユーモアがあり、一緒にいて、思わずこちらも笑ってしまうような人でした」と話していました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20111026/t10013511501000.html

実はマスターの亡父は東北大学の学生時代、北杜夫(斉藤宗吉)氏と面識があったようです。
もっとも北氏は大学卒業直後に仙台を去り、さらに作家へと転身しているので
その後の付き合いはなかったようです。

父に客人が来て、北氏の話になると、いつも以下の二つの逸話を披露していました。

1,彼は大学の講義は遅刻の名人だった。
 階段教室の講義のとき、すでに講義が始まっているのに、
 弊衣破帽姿で教室の奥の扉を開けて現れ、
 中央通路を堂々と下駄を鳴らしながら降りてきて、最前列にどっかりと座ったものだった。
 勿論彼が斉藤茂吉の息子であることは学生も教授も知っていた。

2.あるとき担当教授が学生達を自宅に集めて食事を振舞った。
 敗戦直後の食糧不足の時代ゆえ、たいした物が出なくても
 学生たちは喜んで料理を平らげた。
 ところが一人、料理にほとんど箸をつけない学生がいた。
 斉藤氏である。
 おそらく有名歌人で東京の有力医院長の息子なのだろうから
 幼少時代から美味い飯を食っていて、田舎料理は口に合わなかったのでは。

いま、この記事を書きながら気が付きました。
北氏は自分の事を「躁うつ病」と診断していましたが、
1.の豪胆さは躁状態の時 2.は「うつ」状態の時の状態だったのでは。
いくら田舎料理でも食料不足時代にあまり好き嫌いはいえなかったはず。
「うつ」で食欲が無い時期だったと考える方が理解しやすいです。
北氏が自らを「躁うつ病」というのは後年の作家時代ですが
症候は若き日から現れていたのかもしれません。

秋深し煮込み蒟蒻醤油色

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