進め!2000円札

二千円札の利用を呼びかけています。画像欠落記事はコメント・  メールにて遠慮なく連絡ください。気付き次第復旧致します。

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マスターは1Fのそばの6号線を通過した

三連休を利用して母の命日前墓参を実施した。
時間に余裕があり久しぶりに車で栗原市に向かう。仙台宅で一泊。
往路のラジオで福島第一原発のそばを通る国道六号線が
一般車の通行可となったのを知り、時間はかかるが東北道でなく
建設途中の常磐道を利用して帰京することにした。
浜通りを走る6号線は、冬場に東北道が雪で不通、
あるいは危険な状況の時に利用している。
知っている路である。

仙台のはずれ、長町インターから高速に乗る。
相馬の手前でいったん高速は終了。再び相馬市の
はずれから南相馬まで二区間を乗る。
試験共用の名目で、この二区間は無料。

再び高速が終わり、
旧原ノ町市役所を過ぎると、周囲の風景がおかしくなる。
塩害ばかりではない耕作放棄地が国道の周りに出てくる。
沿道のドライバー相手の店には閉店している店も多い。

浪江町の町名表示を過ぎると
「猪・動物に注意」の看板
勿論「警戒区域につき、駐停車禁止」の意味の看板も。

おりしもFMラジオからはチャイコフスキーの
「悲愴」第一楽章が流れ始める。



あの甘く暗い「悲愴」の主旋律を聞きながら
国境検問所のような除染施設はフリーパス。
速度を落とさずに通過。

やがて町並みが現れる、
沿道の建物は3年半前の被災時のまま朽ち果てている。
放棄されたガソリンスタンドや耕作放棄地には相変わらず
被災した車が放置されている。

電柱・架線にツタが絡んでいる常磐線を右に見る。
要所には白マスクを着けた警官や作業員たちがたっている。

1F(いちえふという無機的な言い方がふさわしい。
実際に来て初めて理解した)への道は狭い農道に至るまで
すべて簡易バリケードで封鎖されている。
封鎖されているのは、道だけではない、
家屋の玄関も皆バリケードで覆われている。
停車は禁止され、信号機は皆黄色点滅。
対向車はいわきナンバーが多い。

1Fへのメインルートの入り口には
原発需要を当て込んだであろう地元資本の
赤色がすっかり褪せた
「原子力運送」という大きな広告塔がたっていた
(帰宅後調べたらやはりそうだった。現在は倒産)。

1Fは砂防林に隠れて素人目には全く見えない。

1Fのあたりを過ぎるとすぐに「富岡IC」の表示がでる。
ためらわず右折。
再び除染施設、警官たちの監視所を過ぎて高速へ。

ラジオの曲はチャイコフスキーでもヴァイオリン協奏曲に変わっていた。

まるでSF映画のような光景。
そしてかって東西分断時代に
西ドイツから西ベルリンに封印列車で向かった時の記憶が
頭の中に蘇った。

高速に乗る。「区間」は終わっていないことに気づく。
路肩にあるのは速度計でなく、
「2.5」と表示された放射線量表示計だった。
それがしばらく続く。

富岡までは東京から高速一本で行ける。
日帰りもできる時間である。
全国会議員は、欧州視察など行かずに
まず1Fそばの6号線をクルマで通ってみるべきだ。
日本にないはずのゴーストタウン。
「金目」が何をもたらしたかを。

荒れ果てる寺に一輪彼岸花

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被災地復旧では生コン・アスファルトが不足している

二か月ほど前、仙台宅に入居している土建業者と話した時である。
その時タイトルの話がでた。
不肖マスター。その時まで生コンは
工場から数十キロしか運べないことを知った。
言われてみれば高速道路を生コンミキサー車が
長距離走行をしているのを見たことがない。

理由は明らか。
震災復興で生コン工場を作っても、需要一巡後は
過剰設備となるので民間業者は生コン工場を被災地近くに
作りたがらないのである。

アスファルトも同様である。

もともと建築・建設業界は’90年代から
「土建屋国家」への批判で、需要・供給ともに
減少を続けていた。

今回の震災ではこの「コンクリートから人へ」路線
(民主党ばかりではない自民党時代もそうだった)
が裏目に出た形である。

高校生の弁論的な結論だが
ここは国が援助して生コン工場を建設すべきでは。
数年後余剰施設となり閉鎖するときは助成金を出し、
生コン製造業者は損を出さないようにする。
資金はそれこそ復興関連予算を出せばよい。

鹿児島あたりの工事や、NHKの番宣に使うより
よっぽど有意義だと思う。

こういう国家の介入は戦時経済位しかしてはいけないのだが
「内戦並み」の被害を受けている被災地はまさに
「戦場」なので、ご一考願いたいところである。

「被災地 生コン不足」でググると
いろいろな報道・意見が出てきて考えさせられる。

これも話に出たが
材料・技術者不足での「入札不調(入札が成り立たない)」も
被災地では問題になっており、世の中理想論では
成り立たないことが理解できる。


嘘だらけ節電やめて冷房を

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石巻の鯨缶詰

台所を整理していたら賞味期限切れの缶詰が見つかった。
P1000103.jpg

確か母を介護していたころ、仙台駅前のさくらのデパートで買ったものだ。
いまどき珍しい鯨缶なので買ってみた。
結局、両親には供することなく二人はこの世を去った。
家は他人に貸すことになり、この手の食べ物はマスター宅に持ち帰った。
缶詰を開けて食べてみる。昔なじんだ大和煮の味だった。
ラベルを見ると製造元はあの石巻・・・・。
P1000104.jpg
この缶詰を買った時には想像もしなかった地震の被災地。
旧市街はことごとく津波に流されたと聞いている。
食事中だがネットで「木の屋石巻水産」を検索。

詳しくはリンク先をご覧いただきたい。
やはりすべてを流してしまったそうだが、
その後流されなかった缶詰を売り、復興まじかという。

勤務先で話をしたら、その顛末はテレビで紹介されていたそうだ。

復興の姿映せよ春の海

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復興需要で助かる土建業界

仙台の生家だが、現在は他地方から来た土建業者にお貸ししている。
広い応接間だった部分をオフィスにして、
社長は単身赴任で母屋に住まわれている。
古屋だし他にも座禅会で使用するし、
またマスター家の帰仙時に泊まる部屋は手つかずのまま確保しているため
家賃は維持費程度しかいただいていない。

社長とはよく話し合うというか、飲む機会がある。
いわゆる「仙台の復興バブル景気(特に国分町の飲み屋街)」は本当である。
社長の土建屋は仙台に来るまで、公共事業の抑制のために赤字だった。
来仙後、復興関係の工事を次々と受注。
累積赤字を一掃して、かっての負債額以上の利益をわずか一年で生み出した。
社長も自炊はせず、もっぱら夜は付き合いと称して飲み食いの日々である。
現在の業務上の悩みは実際に土木作業を行う人が不足していることだ。
「土建屋というと皆嫌がるんですよね。」とグラス片手に苦笑している。
「あと10年以上はココの仕事(復興事業)で食えます。」と屈託なく語る。

仙台で体一つから稼ぎたい方はマスターにご一報願います。
仕事場を紹介します。


この「景気」も二万人の屍の上に成り立っていると思うと、
被災者の一人として複雑な思いがする。

写真は雪景色の生家への通路
P1000075.jpg

今はもう他人(ひと)が住む家雪をかく





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送別会の居酒屋で

先月下旬のこと。
別の部署の知人と偶然帰りに一緒になった。
彼は依然同じ部署にいた縁がある。
彼もやはり「異動」の掲示がでていた。

近くの居酒屋で「送別会」。
先日、父の一周忌で帰省した話をすると
ママさんが話に加わった。

なんとママさんの田舎は岩手県の沿岸部で
マスターの一時間前の新幹線で「一周忌」の帰省をしたそうである。

マスターも思ったが、喪服の人たちが新幹線に多かったそうである。
被災した人は「3・11」に合わせ合同一周忌を行う人が多いそうだが
ママさんの親戚も「それだけではかわいそう。」ということで
一週間前に個人で一周忌を営んだそうである。

一周忌黒服達が浜へ行く


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TVドラマ 「明日をあきらめない~がれきの中の新聞社」をご覧ください

もうすぐ一年経つためか東日本大震災関係のアクセスが
再びみられるようになりました。
そんなこの頃、仙台育英会五城寮関係者からメールが来ました。

震災翌日、地元紙河北新報は壊滅的状況の中から
朝刊を発行・配達しマスターを含む被災者の大きな励みと
なったことは、過去記事で触れています。


その様子を書いた本を原作にしたテレビドラマが製作・
放映の運びとなったそうです。


TVドラマ 「明日をあきらめない~がれきの中の新聞社」

上記製作元のリンクをご覧ください。

放送日時は
3月 4日(日) 19:54~21:48 テレビ東京(7)テレビ大阪他
3月10日(土) 13:00~ 約2時間 東北放送TV
3月11日(日) 21:00~22:55 BSジャパン


です。

マスターは、4日は父の一周忌法要のため仙台に帰っていますので
見るのは11日夜になるでしょう。

原作ともども是非ご覧ください。

なおリンク先にもありますが予告編もアップします。




新しき東北築けよ春を待つ

河北新報のいちばん長い日 震災下の地元紙河北新報のいちばん長い日 震災下の地元紙
(2011/10/27)
河北新報社

商品詳細を見る

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やはり来たあの喪中葉書

すでにマスターからの喪中ハガキは出し、
逆に他の人からの喪中ハガキも来ている。

先ほど受け取った喪中ハガキ。

「妹 ○○ 儀 3月11日の東日本大震災の
 津波により南三陸町歌津にて亡くなりました。」

歌津は志津川の隣町。志津川同様の漁師町である。

知人の妹が「二万人」の一人にカウントされていた。
何ともやるせない。

襟を立てポストを覗けば喪中状

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両親連名の死去告知

マスターの勤務先では従業員の親(まれに配偶者・子供)が亡くなると
死去者と従業員との関係。通夜・葬儀の日程会場を書いた告知がでる。

数日前、ある従業員の両親連名の告知が出た。

両親一緒の死去? 何かの事故?

始めはよくわからなかった。
死亡日時は3月11日 随分前である。

そこでようやく気が付いた。
御両親は「3・11」の犠牲者だったのだ。

葬儀場は津波の被災地。津波に流されたのだろう。

震災後半年を境に「行方不明」から「死亡認定」に切り替える
「遺族」が多いと聞く。
この従業員の方もご両親の「死」を受け入れる事にしたのだろう。

葬儀の日程を見ると「通夜」は「なし」と書いてあった。

窓を明く一朝ごとに冷えが増す

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3・11から7か月

あの阿鼻叫喚からそんなに経ったのかというのと
復興まではまだまだ始まったばかりとの両方の思いがします。

新聞では仙台では被災者に義捐金・保険の支払が始まっており
時ならぬ「復興需要」がでているとか。
一方で瓦礫の片づけの後、更地となった被災地の建設許可は
下りないので、一番カネが動く建設関係がまだまだで
銀行は現金勘定を抱えて苦労しているそうです。

ATMも壊れて現金不足に陥った七か月前を思い出せば
ずいぶん贅沢な悩みだと思います。

被災地の再建は焦りたいでしょうが、
慎重に将来を見据えて行うべきです。

関東大震災のあと、東京では被災地の区画整理を行いました。
台東区や墨田区の道路が直交しているのはそのためです。

一方、それから20数年後の東京空襲のあとでは
このような都市計画はなおざりにされ、
被災地は勝手に再建されるままにまかされました。

その結果、大震災時は郊外であまり被害がなかっが
空襲時には都市化されていた荒川区・北区・豊島区などは
その後区画整理が進まず、最近ではスラム化に苦しんでいます。

人口減少の中での農漁業の位置づけ、都市部からの
農漁村への移住者優遇策も含めた復興計画を是非作ってほしい。

また被災地整理はいつまでも無償ボランティアばかりでなく、
有償ボランティア・一般土木作業に切り替える頃だと思います。
勿論現金支払いは二千円札で。復興のしるしと日銀の滞貨一掃となります。

暁やまだこれからと祈り込め

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福島ガンバ!

在京の知人が三連休を利用して、20年近く前の任地「福島」へ出掛けた。

インターを降りるときの「罹災証明渋滞」にマジギレ。
「コレッテナンダヨー!見たところみんな遊びに出かけているんじゃないか!」

かっての客を訪ねて「ガンバ!ガンバ!」と叫ぶ。
「客」は「あなたこそしかめっ面で叫ばないで頑張ってください。」
と答え、知人は「被災者から逆に励まされた!」と感激。

辛い平日が続く被災者たち。
休日にクルマで駆けつけて「福島ガンバ!」と叫ぶ
東京者への笑顔や優しい言葉の陰には
家・財産・仕事・家族・友人・仲間を失った悲しみが沈んでいるのを
知人はどれほど理解してくれたのだろうか。

知人が一番会いたかった人は「多忙で外出中」。
その人のサイレントメッセージを理解したのだろうか。

台風一過「寄り添う」ことの難しさ


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