進め!2000円札

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父の引き揚げ2 ヒロシマへそして引き揚げ列車へ(画像復旧)

(前記事続く)
アンパンについて述べる。(シバリョーか?)
敗戦直前まで兵学校の夕食はどんぶり飯一杯と味噌汁だった。
夜食としてアンパンが各自一個支給された。
当時二十歳前後の生徒たちは食料の少なさに不満を募らせていたそうだ。
しかし、母や同時代人、歴史書の語るところでは「とんでもない贅沢。」である。
その頃空襲で焼け出された母一家は
焼け残った知人宅を転々としていたのだから当然であろう。
かくして大量のアンパンが兵学校にあったのである。
マスターが思うに、敗戦後に小麦や小豆のまま生徒に渡すより、
アンパンに加工したほうがすぐに食べられるので便利だと関係者は思ったのだろう。

父の引き揚げに戻る。
父たちを乗せたフェリーは当初呉軍港に接岸、上陸の予定だった。
しかし呉は敗戦直前の空襲で港湾機能は壊滅。
沈船が赤い腹を出している有様なので、急遽宇品へと向かう。

宇品へ上陸後、「何も無い」広島市街地を歩いて、町外れの広島駅へ向かう。
駅で列車待ちをしていると有蓋貨車の「引き揚げ列車」がやってきて乗車する。
大阪につくと「東海道方面は危険」と言われ、北陸線経由の列車に
乗り換えを余儀なくされる。

マスターが思うに、当時米軍が関東地方に上陸したので、無用の混乱を
避けたのだろう。また北陸線利用のほうが距離的には東北・北海道に行くのは
ちかいので、混雑状況からの配慮もあったものと思われる。

父を乗せた列車は北陸本線をたどる。
無蓋貨車に変わっていた。新潟を過ぎたあたりで朝鮮から
引き揚げてきたという母子の子供がひどく腹を空かせているのに気がつき
有り合わせの水と調理器具で米をお粥にして炊いてその子に与えたという。
新発田から羽越線、余目で陸羽西線、新庄で陸羽東線、小牛田で
ようやく東北本線に乗り換え石越駅で降り生家へと向かった。
帰郷直後の父の軍服姿の写真が残っているが、やはり表情は暗い。
無念さを顔から滲ませている。

FI2622575_2E.jpg

イメージは呉空襲の写真です。

夏服の襟章外れり古写真


TITLE: 父の引き揚げ3 カッター引き上げ組
URL: http://www.doblog.com/weblog/myblog/2450/2622576#2622576
IP:
BLOG NAME: 進め! 2000円札
DATE: 09/03/2008 09:46:49
[関連したBlog]
カッター。日本語で短艇ともいう。
かっては木製の大型ボートのことを指す。
オールが8~10本ついておりそれが動力となる。
乗員は満載時で30名。
桟橋や船どうしの人員移動や、救命・救助用に使われる。
イメージは海軍兵学校のカッター桟橋の古写真です。

「引き揚げ」に使われたのは鉄道ばかりではない。
前述の「近場」の出身者...

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