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立教大学と太平洋戦争1(画像追加)

過日、産経新聞の一面コラムを読んでいた。
俳優池部良氏の訃報から書き起こした文章だが
腑に落ちない記述があった。(以下引用)
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(前略)

▼池部さんは、エッセイストとしても一流だった。(中略)
 ▼あるとき、80歳近い大学の後輩が血を吐き、
「遺書」が息子から速達で送られてきた。
戦没学生の慰霊碑を母校に建てようとしたら「戦没者は、戦争加害者であり
平和を願う大学の理念に背く」と断られた、先輩も大学当局を糾弾してほしい、と。

 ▼血を吐いた後輩はがんではなく、魚の骨が刺さっただけで、
すぐ電話がかかってきたという落ちにしている(「ああ戦没学生」)が、
こんな大学が東京六大学のひとつかと思うと悲しくなる。
エッセーという池部さんが遺したドスは死後も錆(さ)び付いていない。


http://sankei.jp.msn.com/life/trend/101013/trd1010130414000-n1.htm
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あの産経なので、「戦没者に冷たい左翼思想に染まった六大学のひとつ」を
揶揄したのだろうが、
池部氏の後輩として「こんな大学」を卒業した身には違和感を感じた。

というのは、学徒動員で戦地で倒れた諸先輩がいることは
大学でちゃんと教育をしているからである。
さらに戦没者慰霊碑に対応する碑も学内にあるはずと思ったからである。

まず、学徒動員についてマスターが学生時代に教わったこと。
一般教養の歴史の教授に林英夫という先生がいた。
もちろん文学部の教授である。
その歴史の講義は人気があり、タッカーホールと呼ばれる大講堂でおこなっていた。
晩年は「なんでも鑑定団」で古文書の鑑定を行っていたので
林先生の姿をテレビで見た人は多いだろう。
※1980年ころの林先生の顔写真を追加します。
img006.jpg


林先生の新年度の講義が始まって間もないころ。
先生は「きけ、わだつみの声」のある遺稿を紹介された。

 愛児への便り(遺書)

 素子 素子は私の顔を能く見て笑ひましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入ったこともありました。素子が大きくなって私のことが知りたい時は、お前のお母さん、佳子伯母さまに私のことをよくお聴きなさい。私の写真帳もお前のために家に残してあります。素子という名前は私がつけたのです。率直な、心の優しい、思ひやりの深い人になるやうにと思って、お父様が考えたのです。


 私は、お前が大きくなって、立派な花嫁さんになって、しあわせになったのを見届けたいのですが、若しお前が私を見知らぬまゝ死んでしまっても、決して悲しんではなりません。お前が大きくなって、父に会ひたいときは九段へいらつしゃい。そして心に深く念ずれば、必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮かびますよ。

 父はお前は幸福ものと思ひます。生まれながらにして父に生きうつしだし、他の人々も素子ちゃんを見ると真久さんに会ってゐる様な気がするとよく申されてゐた。
 
 またお前の伯父様、伯母様は、お前を唯一の希望にしてお前を可愛がって下さるし、お母さんも亦、御自分の全生涯をかけて只々素子の幸福をのみ念じて生き抜いて下さるのです。必ず私に萬一のことがあっても親なし児などと思ってはなりません。父は常に素子の身辺を護ってをります。優しくて人に可愛がられる人になって下さい。

 お前が大きくなって私のことを考へ始めた時に、この便りを読んで貰ひなさい。

  昭和19年〇月吉日                                  父



  植村素子へ

  追伸 素子が生まれた時おもちゃにしてゐた人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ります。
 だから素子はお父さんと一緒にゐたわけです。素子が知らずにゐると困りますから教へて上げます。


最後の追伸の部分になると
女子学生たちの間からはすすり泣きの声が聞こえた。

読み上げたあと林先生は
「この遺書を書いた上村さんは君たちと同じ立教大学に学びました。
この大学に学びながら、生きて大学に戻れなかった人たちが
大勢いることを覚えていただきたい。」
といってその日の講義は終った。
その日の講義に限って、皆静かに離席したのを覚えている。
(続く)
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