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立教大学と太平洋戦争5

(前記事続く)
以下、ほとんど同書からの引用となります。

同書を読んでいると、実は戦没者慰霊碑にあたるものは戦前すでにありました。
1939年(日中戦争時)に第一回の戦没者慰霊祭が行われ、この時点で大学側が
確認した9名の戦死者(ほとんどが卒業生)の名前を刻んだ
タブレットが除幕されています。
以後、慰霊祭は毎年6月に行われ、そのたびに戦死者の氏名は
タブレットに追加されます。(このタブレットは現存しているらしい。)
もちろん慰霊祭はキリスト教式で、チャペルにて行われており
第一回の慰霊祭には当時のライフスナイダー総長をはじめとする
米人理事たちも列席しています。
つまり当時アメリカ本国は中国側の方を持っていましたが、
米人理事たちはその方針とは違い、あくまで日本側の事情を
優先させました。(他例として靖国神社参拝も公認している。
先の植村氏の遺書で「九段へいらっしゃい」という文が
あることに注意。)

このころから大学組織も戦時下に合わせて改組され
1941年4月からは学生のクラブ活動などを「報国団」として
組織化、学業成績にも加味することを始めています。


その後日米関係は悪化の一途をたどります。
1941年8月。立教学院の米人理事二人(ライフスナイダー他一名)も辞任。
帰国の途につきます。米人で一人残ったポール・ラッシュ博士も
前述のように日米開戦とともに抑留されます。

こうして立教学院から米英国人の姿は消えます。
それでも1942年6月の慰霊祭は例年通りキリスト教式で
チャペルでおこなわれ、タブレットに戦没者の名前が追加されました。

ところが同年9月「学生暴行(騒擾)事件」が勃発します。
15年戦争の中、学内教職員・学生らにも「反キリスト教主義」を
公然と唱える者が現れ始め、その中の学生が教職員を巻き込んだ
「暴行事件」を起こしたようです。
同書でも「詳しいことはわからない。」と述べていますが、
ひょっとしたら関係者に存命者がいて遠慮しているのかもしれません。

一部学生・教職員からの暴力的突き上げと文部省の指導の板挟みにあった
大学当局は、はやくも同年9月中に「キリスト教主義教育」の廃止を「決断」、
チャペルを閉鎖します。

この辺、四半世紀後の大学紛争時に
各大学が陥ったジレンマを想起させます。

文部省は文系学部を不要不急のものと考えていたようで
当時、文学・経済のみの立教大学は統廃合の可能性がありました。
そのため不祥事に関しては必要以上に対応せざるを得なかったのかも
しれません。

立教大学は存続のために、当初は聖路加病院を母体とした医学部の設置
を試みますが、病院側・所轄の厚生省の反対・文部省の消極姿勢もあり頓挫。
やがて理科専門学校(現理学部)を設立。
さらに文学部を事実上廃止。学生は慶応など他大学に転校させます。
こうして、立教大学はハードは残ったものの、
ソフトは入れ替えられてしまったのです。

43年、44年の戦没者慰霊祭は神式で行われ、
タブレットへの戦死者の刻印はなされませんでした。
閉鎖したチャペルは当初物置、その後は食糧倉庫
(一説には漬物置き場)と成り果てます。

神道での慰霊祭については、当時賀川豊彦も
「キリスト教を信じる信念がなさすぎるではないか。」と非難しています。

言うまでもなく1943年秋には学徒動員が行われます。
現時点で394名の立教関係者の戦没が確認されています。


(続く)





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